萩本欽一の名言
萩本欽一のプロフィール
萩本欽一(はぎもと きんいち/1941年5月7日-/男性)は、東京都台東区出身のコメディアン、タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家。「欽ちゃん」の愛称で親しまれている日本を代表するコメディアンの一人であり、坂上二郎とのお笑いコンビ「コント55号」でブレイク。多数のレギュラー番組を抱え、テレビを席巻し「視聴率100%男」とも称された。1985年に当時のレギュラー番組をすべて打ち切り、半年間ほどの休養をとってから、芸能界活動は少なめになるものの『欽ちゃんの仮装大賞』など、長寿番組の司会を務めていることもあり、日本国民で知らない人はいないと言われています。ちなみに「ウケる」「天然」「天然ボケ」という言葉は、欽ちゃんの造語とのこと。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)
著書
主な著書に「ユーモアで行こう! 萩本欽一」「負けるが勝ち、勝ち、勝ち! 「運のいい人」になる絶対法則」「なんでそ-なるの! 萩本欽一自伝」「人生にはチャンスが三度ある 成功する人の演出力」「ダメなときほど運はたまる だれでも「運のいい人」になれる50のヒント」「人生が楽しくなる気持ちのいい日本語」「欽ちゃんのダメをやって運をつかもう!!」「まだ運はあるか」「「笑」ほど素敵な商売はない」「快話術 誰とでも心が通う日本語のしゃべり方」「欽言力」「テレビに恋して20年 泣いて笑って、笑って泣いて…」「野球愛」などがある。
萩本欽一の名言集
僕がまわりから
「才能がない」と言われながらも
コメディアンになるのを
あきらめなかったのは、
自分に悪いと思ったから。一度は「絶対コメディアンになる」
と決意したわけだからね。簡単にあきらめちゃったら、
そう決断したときの自分に
申し開きが立たないでしょ。
「石の上にも3年」って言うけど、
みんな何だかんだいって
3年ぐらいは辛抱してると思うの。だから3年じゃ、しょせんは
人と同じ程度のものしか身につかない。本気で何かを成し遂げようと思ったら、
5年は辛抱しなきゃ。
幸せとは形じゃない。
幸せとは気分だと思っている。
「つらいなぁ」というのは、
大きな運をつかむ予兆だと思う。
そこを逃げずに踏ん張ることが大事なんだ。
聞いちゃダメ!
聞いて偉くなった人は誰もいない!
「得意なこと」と「やりたいこと」は
一致しないんだよ。だから、まずは「得意なこと」を見つけなさい。
それが成功すれば「やりたいこと」は
できるようになってくるから。
運は正面から来ない。
必ず後ろから来る。
答えを探すというのが修行。
教科書が無いから自分の教科書を作るんです。
人は誰しも同じ分だけ
「運」を持ってるの。不運だけとか幸運だけの人生
なんてあり得ない。不運の後には、
必ず幸運がやってくる。だから嫌なことやつらいことがあったら、
「ラッキー」って思わなきゃ。
次は必ず運がまわってくるんだから。
僕、浅草で修行を始めたころ、
「オマエは才能がない」
と言われ続けていたの。でも、ぜんぜんめげなかったね。
だって、チャップリンもエノケン(榎本健一)も、
若いころは「才能がない」と
言われていたらしいから。天才と呼ばれていた人よりも
才能がないと言われていた人のほうが
成功している。だから、「才能がない」と言われてむしろ
うれしかった。「これで成功するための条件を
ひとつクリアしたぞ」ってね。
ダメな奴ほど、
ダメじゃない。
振り返ってみると、ぼくの人生って、
自分の思いもよらないところに
広がっていってるんだよね。それはなぜかというと、
イヤだなと思っても、完全には断らないで、
うーん、じゃあ一回だけとか言って、
まずはやってみたから。そのときには、そのイヤだなと思うことの
いいところを探したんです。だいたいみんな、イヤな仕事の
いいところは探さないんですよ。でも、イヤな仕事ほど、
いいところを探したほうがいいね。
自分のためだけじゃなくて、
誰かのためにやっていると、
途中で投げ出さないよね。自分のためだけだと、
つらくなると、
やめてしまうでしょ。でも、たとえば命の恩人や
お世話になった人に
お返しをしたいと思ったら、
途中で投げ出せないよ。ぼくなんか、
まさにそうだった。コメディアンの才能がない
ってわかってたけど、ぼくが子どもの頃、
借金取りに土下座して、
泣いていた母親のことを思うと、
途中でやめるわけにはいかなかった。お金持ちになって、
家を建ててやりたいと思ったからね。
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